第一話 吸血鬼の少年

 巨大な、荒れた屋敷があった。
 手入れさえしておけば立派だったであろうその屋敷は、とても人が住んでいるようには思えない。
 陽はすでに傾き始めていた。屋敷を照らす夕日は、荒れた屋敷の異様さを際立たせるのに十分な力を持っていた。
 そんな屋敷の門を開ける者がいる。
 髪の色は金。瞳の色は紅色。どう見ても日本人には見えない。容貌から判断するに10代の半ばといったところか。
 少年が玄関の戸に手をかける。
 彼はこの家のあるじ――といっても現在は不在であるが――のマテウス・ゴットハルトの息子、クロツ・ゴットハルトである。
 クロツは人間ではない。正体を隠しているが、彼は人の血を飲む、人ならざるモノ――吸血鬼であった。
 しかし、伝承などで語られるそれとクロツはかなり異なっている。
 彼は血を飲むのを嫌っていた。そして、人のための学校に通い、人間とも友好的に付き合っている。
 異形であることを意識しなければ、ただの男子高校生である。
「ただいま」
 クロツが扉をあけながら中に声をかける。
 返事は、ない。
 クロツが学校に行っている間、この家の留守はメイドであるヘレナが守っているはずである。
 メイドのヘレナも人ではない。彼女は強大な力を持つ魔女であった。
「ヘレナ、いないのか?」
 ヘレナは勤勉とはいえないメイドである。「おかえり」と返さないことも珍しくはない。しかし、クロツは彼女の気配そのものを感じることができなかった。
 それほど敏感な性質とはいえないクロツだったが、なぜだか今日ははっきりと、ヘレナが家にいないということがわかったのだ。
「出かけるなら出かけるで、一言いい残しておけばいいのにな、しょうがねえ奴……」
 そう一人ごちるクロツ。巨大な家だけに、独りでいると寂しさが強く感じられる気がする。
(少し手入れでもするか。やっとヒヤシンスにつぼみがついたところだし)
 クロツの趣味は園芸であった。
 男子高校生にしては珍しい――地味ともいえる――趣味であるが、彼は土をいじり、植えた苗や蒔いた種が成長するのを見るのが楽しくて仕方ない、そんな少年なのである。
 小さなスコップなどを手に取って庭へと向かう途中、クロツはこちらに黒い車が走ってくるのが見えた。
 車はそのまま屋敷の前まで進み、停止した。
(何だ?)
 普段から来客などあまり無い家である。クロツは妙なものを感じた。
「着いたぞ、ここだ」
 そう言いながら車の中から黒服が出てきた。全部で三人。
 体格は、良い。
 似たような背格好で顔も瓜二つ。いや、三人だから瓜三つと呼ぶべきか。 まるで写真をカラーコピーしたかのような、そんな印象を与える三人組である。
 クロツのほうを男たちが見る。
「なんだ? 魔女の子供か?」
「なんだ、魔女の子供なのか?」
「そんな情報は無い。魔女の同居人ではないか?」
 三人は姿だけでなく、声まで似ていた。SF映画に登場するクローンのようだな、とクロツは思った。
 三人はクロツの家の門をくぐった。あるじであるクロツに断りもせずにである。
「あの……」
 クロツが男たちに声をかけようとする。男の一人と目が合った。
「どうする?」
「どうすればいい?」
「できるだけ魔女の手駒は減らしておきたい、だから……」
――殺そう。
 クロツははっきりと、自分へ殺意を向けるその言葉を聞いた。幸運か、クロツが鍛錬に使っている木刀が庭の隅に転がっていた。
 木刀のもとへ、クロツが駆ける。
 男たちがクロツのもとに迫る。速い。
(なんなんだ、こいつら!?)
 クロツは戦慄した。走りよって来る男たちから身を守るため、庭で寝ている木刀に手を伸ばし、掴んだ。
 クロツに向かって突き出された男の手が伸びる。比喩ではない。実際に伸び、円錐状に形を変えて、クロツの顔を突き刺そうとしていた。
「あぶねっ!」
 クロツが手に取った木刀を無心で振り回す。偶然、勢い余った木刀が男の側頭部を強打する。
「ぐああああああ!」
 頭を木刀で打たれた男が、悶絶する声をあげて倒れた。男の頭がへこんでいたが、死んではいない。どうやら人間ではないようだ。
「こいつ!」
 残った二人のうちの一人が、クロツに迫る。円錐状の手を伸ばす。間一髪、クロツがそれを避ける。
 肌色をした円錐状の不気味な手がクロツを襲う。それが肌に触れたなら、肉を貫くことくらいはできるだろう。なぜかクロツにはそう思えた。
 次々と繰り出される伸びる手を捌いているうちに、クロツはふと疑問に思った。
(なんで俺、一対一で戦っているんだ?)
 そこでクロツは気づいてしまった、自分の右方向にもう一人の黒服の男が立っていることに。
 虚を突かれたクロツに、同時に四本の腕が迫る。
(まずいな……!)
 伸びる腕めがけ、木刀を振る。しかし、四本の腕を同時に振り払えない。
 二方向からの攻撃がそのままクロツに迫り、そして、右側に立っていた男の手がクロツの首に巻きつく。
 それがはじまりの合図だったかのように、残りの三本の腕が、クロツの首に絡みつく。
 いつの間に変形したのだろうか、男たちの腕は円錐状ではなく、まるで布のように薄くなっていた。その布のような腕が、クロツの首を締め上げる。
「ぐ……ぁ……!」
 ぎりぎり、みちみち、クロツの首から、嫌な音がする。
 そして、大きな鈍い音がして、クロツの首がありえない方向に曲がった。
 巻きついた腕がほどかれ、クロツがばたりと倒れた。
 クロツの身体が、手足が、びくびくと痙攣している。紅い瞳が、身体の向きを考えると本来見ていてはいけない方向を見ている。
「殺したか?」
 頭を打たれた男が二人に話しかける。頭はへこんだままである。
「首が折れた。まだ息はあるみたいだが、じきに死ぬだろう」
 男の一人がそうこたえると、へこんだ頭の男は嬉しそうにこういった。
「死ぬのか、そうか」
「これで魔女の手下はもういないだろうな。行くぞ」
 男の喜びの声をもう一人の男が遮った。そして、黒服の男たちはクロツの家の中へと入っていった。
(あいつら……一体、何を?)
 クロツは苦痛に悩まされながら彼らの目的が何であるかを考えた。
 吸血鬼であるクロツは人とは異なり、人が死ぬような重症を負っても死ぬことがない。だから首が折れていてもそのようなことを考えられるだけの余裕があった。
 ただ、今回はいつもと事情が異なっている。 普段なら、首が斬れてもすぐに元にもどるほどの強力な再生能力を持つクロツであったが、折れた首の修復がなかなか完了しないのである。
(なんで、こんなに首がもどるのが遅いんだ……?)
 今までこのようなことはなかった。人であれば折れた首を自己再生させるなど不可能であるが、彼にとってはそれはできて当然のことであった。
 だからこの事態にクロツは恐怖と奇妙さを感じていた。
 クロツはひたすら曲がった首をもとに戻そうとしていた。
 クロツが手入れをしようとしていたヒヤシンスが、風に揺れる。
 開いた葉の中央にあるヒヤシンスのつぼみが、曲がってはいけない方向に首を曲げているクロツを、じっと見ていた。
 ときどき、家の中から物を派手にひっくり返す音が、クロツの耳に届く。家捜しをしているのだろう。
(好き放題しやがって。)
 あの男たちに家を荒らされていることが、自分があの男たちの家への進入をふせげなかった事実が、クロツの胸を痛めつけた。
(こんなことならヘレナからもっと真面目に魔術を習っておけばよかったな。それにしてもこんな大事なときに、どこに行ったんだあいつ……?)
 あの屋敷はクロツの父であるマテウスのものだが、地下室は彼女が私物化して魔術の実験などに利用していた。
 クロツにはわからなかったが、ヘレナの持ち物は魔術師にとって喉から手が出るほどに価値のある物も少なくない。それゆえ、ヘレナは自分の私物が他者、特に魔術師の手に渡ることを嫌がった。
 そんな彼女があの男たちの蛮行を見過ごすはずがない。しかし、ヘレナが現れる気配は一向になかった。
(ん?)
 家捜しの音が止んでいることに気がついた。そして、玄関の戸が開く音が聞こえる。三人分の足音に混じって話し声が聞こえてきた。
「無事、見つけられたな。戻らなければ」
「無事、見つかって良かったな。行くぞ」
「……早く車に乗れ」
 家から何を持ち出したのか確認する術は、今のクロツにはなかった。
 車のドアが閉まる音、エンジンをかける音、そして車が発車して遠ざかっていく音、クロツの耳に三種類の音が届いた。
 ゴットハルト家は、静かになった。
 クロツの首はまだ戻らない。
(本当に、どうしちまったんだ? 俺……?)
 自分の身体なのに自分の身体でないような、そんな感覚だった。
 そのとき、クロツの後頭部――といっても首が折れているのだが――の方から草をかきわけるような音がした。
 そのまま何かが、クロツに近づき、声をかけた。
「クロ、大丈夫ですかにゃ……?」
(ミーヤか?)
 はたしてクロツに声をかけたのは、ヘレナの使い魔である猫又のミーヤであった。
 クロツの目のある方向に、ミーヤが回りこむ。可愛らしい三毛猫がクロツの視界に入ってくる。間違いなくミーヤである。
 声をかけたかったクロツであったが、首がねじれているため声が出せない。
「どうやら死んではいないようですにゃ」
 クロツの目の前にいる三毛猫が、人語を話した。ヘレナの使い魔であるミーヤが通常の猫とは異なった存在であることはいうまでもないだろう。
「やっぱり首の回復が遅くなっているみたいですにゃ。……クロの首が治るまで待つとしましょうかにゃ」
 クロツの頭の隣にちょこんとミーヤが座る。
 その姿はとても愛くるしいものだったが、首の折れた少年の脇に猫がおとなしく座っているという光景は、かなり異様であった。
 風が吹く。そのたびに、ミーヤのひげがふわりと揺れた。
 陽は沈もうとしていた。

続く


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