第三話 とおぼえ山の死闘〜前編〜
――結局、戻ってこなかったな。
クロツは「もしかしたら寝ている間にヘレナが帰ってくるかも知れない」という淡い期待を抱いていた。
しかし、目が覚めたとき屋敷には自分以外誰もいないという現実をつきつけられることで、その期待は打ち砕かれてしまった。
クロツは少し気を落としながら、冷蔵庫の中で無事だったものを使って簡単な食事をとり、寝間着から着替えた。
食事を取りながら家にあった地図とヘレナが残した地図とを見比べる。
どうやら、×印で示している地点はとおぼえ山という場所らしかった。とおぼえ山は電車を使えば2時間ほどの地点にあった。ただし、どんな場所かはクロツは知らない。
食事を終えると、クロツは独り、家を出た。
背中には袋に入れた木刀を背負っている。通常の木刀よりも、重い。昨日、謎の黒服三人組と死闘を繰り広げた際に使用した木刀がまさにこれである。
この木刀はただの木刀ではない。非凡な魔術師であるヘレナが作った品であり、通常の木刀よりも重かった。
(用心するにこしたことはねーからな)
木刀を持って電車に乗るのに抵抗がないわけではないが、剣道の練習か何かだと思われるだろう、そうクロツは踏んでいた。
はたして、ほかの乗客は大して気にかけることもなく、クロツはとおぼえ山の最寄り駅まで着いた。駅に降りる。正午より少し前だった。
道路をはさむようにして、木々が生い茂っている。緑が陽に照らされて、眩いばかりに輝いた。
(のどかだなー)
家よりも人よりも、緑が大部分を占めている。そんな光景に、クロツはなにか穏やかなものを感じた。
(って、のんびりしてるわけにもいかねーな)
ヘレナが残した地図を取り出す。目盛りを指で操作し、縮尺を変更する。どうやらとおぼえ山をかなり上った場所が目的地らしい。
(暗い中、山登りはしたくねーな。さっさと目的地まで行かねえと)
地図を頼りに歩き、クロツは山のふもとまでたどり着いた。
(なんだ、この山?)
とおぼえ山は緑が生い茂る、今まで歩いてきた道と大差ないように見えるそんな山だった。しかし、人ならざる者であるクロツは、そこで何かを感じ取った。
(何か、いるな)
吸血鬼である彼は、人が感じることができない何かを感じたり、見たりすることができた。
ただし、クロツはあまり勘の良いほうではない。そんな彼ですら感じ取れるほどの強大な力を持つ存在か、もしくは多数の異形がこのとおぼえ山には存在するようである。
山に一歩、足を踏み入れる。
「止まれ」
頭上から声がした。クロツが上を見ると、山伏のような格好をした男が木の枝の高いところに腰掛けていた。
その山伏もどきをよく見る。口がなく、かわりに嘴がついており、さらに背中には翼が生えていた。
「……カラス天狗か?」
つぶやくようにクロツがいった。
天狗というのは比較的良く知られた妖怪であるといえる。天狗は剣術にすぐれ、不思議な力で大風を起こしたりできる妖怪である。そうクロツは聞いていた。
カラス天狗はその天狗の一種である。鼻の高い、大天狗と呼ばれる天狗と比べると下級の妖怪らしい。
「異国の妖怪が、このとおぼえ山に何をしに来た?」
さすがというべきか、カラス天狗はクロツが異国の妖怪――吸血鬼――であることを一目で見抜いたようである。
「ええと、その、うまく言えないんだけどな……この山に探し物があって来たんだ」
クロツの発言を聞いたカラス天狗の表情が一変する。
「貴様、あの小娘の仲間か!?」
カラス天狗がどこに隠し持っていたのか、刀のようなものを取り出してクロツに向ける。
「あの小娘?」
「とぼけるな。大方、助太刀に来たといったところか。異国の者同士、結託していてもおかしくはない」
クロツにはカラス天狗のいっていることがさっぱりわからなかった。「異国の者」ということは、その小娘とやらは外国人なのだろうか。どちらにしろ心当たりがなかった。
「一人増えたところでとおぼえ山の天狗が負けるとは思えんが、合流されると厄介だ。俺が少しくらいは痛めつけておかねばな!」
カラス天狗が刀を構えたまま、枝から飛び降りた。頭が地上に向いている状態で、クロツまで真っ逆さまに落ちてくる。
「あぶねっ!」
落下してくるカラス天狗と激突しそうになったが、クロツは後方に飛びすさってそれをかわした。
カラス天狗のほうは地上に激突する直前で、身体を横向きにし、そのまま上昇した。そして、大人三人分ほどの高さのところでカラス天狗じゃ停止した。
「今の一撃をかわせるということは、少しは心得があるようだな、異国の妖怪!」
当然、クロツはカラス天狗からの攻撃をかわすためのトレーニングなど、したことはなかった。
(ヘレナの一撃と比べるとずいぶん遅いな)
ヘレナはクロツの首を日常的に吹き飛ばしている。物騒な話だが、それがゴットハルト家の日常であった。
ヘレナの一瞬で迫る一撃をクロツはかわせたためしがなかったが、そんなヘレナの一撃と比べれば、カラス天狗の突撃は比較にならないほど遅かった。
そのため、クロツでもカラス天狗の一撃を見切ることができたのである。
(一応トレーニングになってたんだな、あれ……)
ヘレナに首を吹き飛ばされるたびに激痛がはしるため、正直感謝したくはなかったが、クロツが先ほどの攻撃に対処できたのは、間違いなくことあるごとにヘレナから攻撃を仕掛けられていたおかげであった。
(話しても聞いてくれなさそうだし、とりあえず、こっちも武器を使わないとな)
クロツはカラス天狗から目を離さないように注意しつつ、背負った木刀を袋から引っこ抜く。
「武器を抜いたか異国の妖怪、だが、受けきれるかな?」
カラス天狗がクロツの頭上に急接近し、すばやい突きをサッサッサッと連続で繰り出してくる。クロツはその突きを木刀で受ける。
「それそれ、どんどん行くぞ!」
カラス天狗の連続突きは止むことがない。上方からの攻撃を受け続けるというのはクロツの想像以上に難しいものだった。だんだんとクロツが後ずさりし始める。
(まずいな……!)
クロツは、空中の相手にうまく立ち回る術が思いつかなかった。このままではカラス天狗に一方的に攻撃され続けるだけである。
あまり賢い性質ではないクロツであったが、攻撃を受け流しつつ、何か良い方法はないかと必死で考える。
「異国の妖怪は人間のように、ただ木刀を振り回すことしかできないのか? 人間と変わらないのか、面白くないやつだな!」
カラス天狗がクロツを嘲笑い、それと同時に放つ突きの激しさを増した。このまま一気に勝ちを得るつもりだろうか。
(人間と吸血鬼の違い……)
クロツは自分が吸血鬼であるがゆえにできることを頭に思い描いた。しかし、その間にもカラス天狗の突きが次々と繰り出されてくる。
カカッカカッと刀を木刀で弾く音が響き渡る。ほんの少しだが、クロツの動きがカラス天狗の攻撃に遅れ始めていた。
カラス天狗が大きく刀を引き寄せ、
「せいっ!」
気合を込め、渾身の突きを放った。クロツの木刀が間に合わない。
カラス天狗の刀が突き入れられる。間違いなくこの一撃でクロツを串刺しにしたと思ったカラス天狗であったが、手ごたえが感じられなかった。
それもそのはずで、刀の突き出された場所には、何もなかったのである。カラス天狗が驚愕した。
「どういうことだ……?」
クロツのいた場所にカラス天狗が降り立った。左右を見回すが、クロツの姿は見当たらない。
刀を横なぎに払う、やはり手ごたえはなかった。このときのカラス天狗の表情は、まさにはとが豆鉄砲を食らったような顔のごとくであった。
「ん……?」
ふと、周囲が湿っぽいことに、カラス天狗は気づいた。霧である。今日は陽がさんさんと輝いている。先ほどまで霧など出ていなかったし、出るはずがない。
刹那、霧が一気にカラス天狗の背後で集約し、人のかたちをとった。クロツである。
カラス天狗の頭部めがけ、クロツが木刀を力任せに振り下ろす。
カラス天狗が気づく。振り返る。刀でクロツの一撃をを受けようとする。
しかし、吸血鬼の膂力が加わった木刀の一撃は重い。カラス天狗は受けきれない。刀は弾かれ、そのままクロツの木刀がカラス天狗の額を打った。
ぎゃっと短い悲鳴をあげ、カラス天狗が倒れた。
クロツはしばらく、肩で息をしていた。自分の勝利がまだ信じられなかった。しかし、カラス天狗が起き上がってくる気配はない。
「おい、大丈夫か?」
クロツがおそるおそる倒れたカラス天狗に近寄る。どうやら息はしているようだ、殺してはいないらしい。クロツはほっとした。
「よかった……」
心優しい少年であるクロツは、生き物の命を奪いたくはなかった。やむを得ずこのカラス天狗と争うことになったとはいえ、別に恨みがあるわけではない。
クロツは山道へと歩き始めた。
(……どうも、霧になるのはしばらく無理そうだな)
霧に姿を変えるというのは、吸血鬼の代表的な能力のひとつである。
ただし、クロツが霧になることができる時間は、以前よりもかなり短くなっていた。再生能力が極端に衰えていたのと同じく、霧となる力も低下しているようだ。
(ヘレナがいないことと関係あるのか?)
クロツは自問したが、それはわからなかった。ただ、この地図が示す先にその答えがあるような気がした。
(先を急がないとな。カラス天狗に見つからないように行ければいいんだけどな……)
次にまたカラス天狗を相手にしても、またクロツが勝てるとも限らない。争いは避けるに越したことはなかった。
木刀を抜き身のまま、クロツは山を登っていった。念のため、周囲に警戒しながら進む。地の利はカラス天狗のほうにあるだろうが、何もしないで進むよりはマシだろうとクロツは思った。
(それほどきつい山ってわけじゃないみたいだな)
急な坂道であれば登るのに苦労しそうだが、それほど困難な道のりではないようだ。クロツは足取りも軽く、しかし慎重に山道を進んだ。
30分ほど歩いただろうか、ふと空を見ると陽が天の頂きに差し掛かっていた。
枝葉を踏みながら一本道を進んできたクロツであったが、この先の道は左右に分かれていた。
(どっちに行けばいいかだなー……)
道の先を少し覗いてからクロツは思案した。右の道のほうが平坦であるが、遠回りになりそうである。一方、左の道は直接山頂を目指して伸びているため、かなり険しいものであった。
とりあえずヘレナの地図と照らし合わせてから考えようとクロツは地図を広げようとした。そのときである、鳥が羽ばたくような音が複数、上空から聞こえてきた。かなり大きな音だ。だんだんとクロツに近づいてくるようである。
クロツが慌てて地図をしまい草むらに身を投げ出そうとする。しかし、
「そこの異人」
上空からの声で、クロツはその行為が無駄であることを悟った。顔を上げる。三体のカラス天狗が羽ばたきながらこちらを睨みつけているのが見えた。
(やっべーな……)
よく見ると三体とも刀を抜いていた。山の入り口であれだけ苦戦した相手が三体もいることに、クロツは軽く絶望を覚えた。
「異人、我が同胞を討ってくれたのはお前だな?」
カラス天狗のうちの一体がクロツにいった。低いがよく通る声である。
カラス天狗の問いかけにクロツは即答できなかった。
山の入り口でカラス天狗を倒したことは事実である。しかし、このカラス天狗に「そうだ」とこたえれば、このまま武器を交えることになってもおかしくはなかった。勝敗にかかわらず、クロツは争いを避けたかったのである。
「こたえる気はなし、か。だが、今は山の中に我らが同胞以外の者が出入りすることは禁じているはず。貴様がここにいるということが、我らの同胞を討ったことの何よりの証だ」
話をしていないカラス天狗二体が、刀を構えた。
(戦わずに済みそうにないか……!)
クロツが観念して木刀を構える。話をしていたカラス天狗もほかの二体と同様に、刀を構えた。
「お前たち、やつはなかなかの手だれだぞ、心してかかれよ」
その言葉が合図であったかのように、カラス天狗三体がクロツへと突進した。
続く
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